『恋情と悪辣のヴァイオリニスト』番外編①~光音~
『恋情と悪辣のヴァイオリニスト』の番外編(1)光音の話です。
ネタバレになるので、本編未読の方はご注意ください!!
【光の音】
母が入院している病院の廊下を、光音は花束を持って歩いていた。
白い壁とセピア色の床。殺風景な景色の中で、腕に抱えたピンクのガーベラたちは、目が眩むほど鮮やかに見える。
「こんにちは」
すれ違う病院スタッフと挨拶を交わす。そこへ、目の前の病室から、顔見知りの若い看護師が出てきた。
「こんにちは、フランチェスカさん」
「あら、アルト。こんにちは」
軽く笑みを交わした後、光音はすぐさま心配そうな顔になる。
「今日、母の具合はどんな感じですか……?」
「いい感じよ。朝食も少し食べてくれたわ」
それを聞き、口元がほんの僅か綻んだ。ここ数日、ほとんど何も口にしていないことを思えば、朝から何かを食べられただけでも十分「いい感じ」だ。
「さっき、午前の検診が終わったところよ。早く行ってあげて」
「はい」
光音はぺこりと頭を下げ、母の待つ病室へと向かった。
母の癌が発覚したのは、去年の夏のことだった。
乳房に発生した腫瘍は、33歳の若い身体を驚異的な速さで蝕み、病院で診断を受けた時には、既にリンパ節まで転移していた。即刻手術が行われたものの、全てを切り取るのは不可能で、今や母の身体は、あらゆる臓器が癌に侵されている。
13歳の光音にとって、受け入れがたい現実だった。抗がん剤により髪は抜け落ち、日に日にやせ細っていく母を見るのは、辛いなんてものじゃない。宣告された余命まで、あと半年。いつ「その時」が訪れるかと怯える日々だ。
(母さん……)
病室の前に着き、ほんの少し扉を開けると、中からすすり泣く声が聞こえた。
思わずこちらも泣きそうになる。……けど、誰よりも辛いのは本人のはずだ。だから涙は見せまいと、涙を必死でこらえた。
震える唇をぎゅっと結び、笑顔を作ると、光音はコンコンと優しい音で扉をノックした。
「母さん、入るよ」
鼻を啜る音の後、
「あら、来てくれたのね!」
快活な声が聞こえた。いつもそうだ、母は絶対に辛い表情を見せない。悲しい映画を観て泣いていることはあったが、母が私情で涙を見せることは、光音の知る限り一度もなかった。
オレンジの毛糸の帽子を被った母は、ほんの少し起こしたベッドに背を預けていた。表情は見るからに力を失っているが、大きな青い瞳は、紺碧の海のように強く輝いている。
「うわあ、可愛いガーベラ!」
「うん。だって母さん、好きでしょ?」
室内の洗面所で、花瓶に水を入れ、母の見やすい位置に飾る。元気よく咲き誇るガーベラを見て、母は「うふふ」と少女のように笑った。
「父さんがプロポーズの時にくれた花だもの。だあい好きよ」
「プロポーズの言葉は?」
「『僕と、人生を奏でてくれ』」
そう言ってから、母は両手で顔を覆い、無邪気な笑い声をあげる。指は小枝のように細くなり、結婚指輪の内側には、悲しい隙間ができていた。
「飲み物はいらない? 何か買ってこようか」
「いいのよ。点滴ばかり打たれてるから、水分でブヨブヨ。それより、もっと顔を見せて」
椅子を引き寄せ、ベッドの横に腰かけると、母は乾いた指で光音の頬を撫でた。
「美人ね。さすが、私の子」
「それ、男に言うのは変だって」
「そんなことないわよ。大人になったら、眼鏡、コンタクトに変えちゃいなさい」
「え~。目に異物を入れるって、なんか怖い」
困ったように言う光音から手を放し、母は目を細めた。
「今日はなんの話をしようかしら。父さんの出会いのことは、まだ話してなかったわよね?」
光音は微笑み、頷いた。
「知らない。教えて」
「いいわよ。でも、父さんには秘密ね」
唇に人差指を当て、母は言った。
「私、16歳の時に、アグリツーリズモから家出してローマへ来たの。あそこったら、とんでもない田舎でね。私の家はチーズ農家で、家じゅうチーズの匂いが蔓延してたの。だから私、あまりチーズ料理を作らないのよ」
溜息交じりに言い、軽く眉を上げて笑った母に、光音も笑みを返す。
実のところ、光音がこの話を聞くのは初めてではない。数えたことはないが、もう十回は聞いているのではないだろうか。
脳に癌が転移した母は、短期記憶がおぼつかなくなっている。昔のことは覚えていても、ここ最近の出来事が頭から抜け落ちているのだ。
これが治せる病なら、前にも話したことを自覚させてあげるべきなのだろう。しかし、母は違う。なるべくショックを与えぬよう、光音はその都度、初めて聞くような顔をして彼女の昔話に耳を傾けるのだった。
田舎育ちの母は、生まれつき上昇志向の強い人だったようだ。野に咲く花よりも宝石に憧れ、夜空の星よりネオンを愛し、何より、テレビの中に映る煌びやかな世界に想いを馳せていたらしい。
母は美しい人で、村一番の美人だったと本人は言う。子供の頃から村じゅうの男たちに求婚され、早い話がいい気になっていたのだ。容姿に多大な自信を持っていた母は、見合い話が持ち上がるなり両親と大喧嘩し、すぐに家出をした。見合い相手が、太った背の低い男だったことが、反発の大きな原因となったそうだ。
「女優にねえ、なりたかったの」
こう言うたび、母は自嘲ともとれる、少し寂しい笑みを浮かべる。
「オードリー・ヘップバーンみたいになれると思ったのよ。一応、芸能事務所には入れたんだけど、オーディションは落ちてばかりで、受かってもほとんどエキストラみたいな役ばかり。舞台監督から、使ってやるから一晩寝ろって言われた時は、カンカンになって怒ったわ」
ここでいつも「そんな時、父さんと出会ったのよ」と母は言う。
だが、この時は違った。
「周りはライバルばかりで、友達なんていない。田舎に帰れるわけもないし、正直寂しかったのよねぇ……」
どこか遠い目をする母の横顔を、光音は見つめた。
「悪い男に引っかかっちゃって」
「え?」
「実はね、父さんの前に付き合ってた人がいたの」
初耳だった。思わず光音は、軽く身を乗り出す。
「不倫だったの。15歳年上のジャズミュージシャンで、向こうには妻も子供もいた。今も時々、テレビに出てるわ」
「それ……父さんは知ってるの?」
「ええ。だって、その人の紹介で父さんと出会ったんだもの」
母の話はこうだった。
父の音也は、その時30歳。ようやく自分の店を構えたばかりだった。
日本からやってきた寡黙な職人は、陽気なイタリアのミュージシャンにとって、面白い男に見えたのだろう。母の恋人は父をたいへん気に入り、面白い友人ができたと言って母にも紹介したそうだ。
出会った場所は、静かなバーのテーブル席。恋人がトイレへ行くと言って席をはずした後、母は父が何か言い出すのを待っていたのだが、彼は何も話さなかった。
『女の子がこうして見つめているのに、貴方は視線ひとつよこさないのね』
挑発的な口調で言った母をちらりと見て、父は申し訳なさそうに頭を下げたのだという。
『日本人には、口説くという習慣があまりなくて』
『あら、貴方。私を口説きたいの?』
『イタリアの男性は、美しい女性を見ると口説かねばならないのだと聞きました。そうしなければ、失礼なのだと』
『ふうん。私のこと、美人だと思ってるんだ』
困ったように首を傾げ、父は言った。
『声が……』
『声?』
『見た目のわりに、落ち着いた声をなさっていますね。声楽でいえば、アルトの音域』
『それ、褒めているのかしら?』
もともと声が低いことを気にしていた母は、少しカチンときて言った。すると父は、
『褒めていますよ』
そう言って、ゴツゴツとした指でグラスを掴み、ワインを一気に煽った。
『僕の作るヴァイオリンは、アルト音域にこだわりがあるのです』
そして次の言葉が、母の印象に強く残ったのだそうだ。
『僕が、最も愛する音域ですから』
「――それからまあ、色々あってねぇ。父さんと、その男と三角関係になっちゃって。悪気があったわけじゃないのよ。私も、色々悩んでいた時期だったから、あれこれ割り切れないうちに、ずるずるとね」
「それで?」
不安そうな光音を見て、母は言った。
「妊娠したのよ。貴方を」
光音は息を呑んだ。
「どっちの子かわからなかった。恋人のほうは、妻に二人目の子ができたからって、私の妊娠を知る前に別れを切り出してきた。オトヤは……」
伏せた母の視線の先には、当時の情景が鮮明に浮かんでいるようだった。
「結婚しようって言ったの。ピンクのガーベラを持って」
光音は固唾を飲み、続きを待った。
「信じられないでしょう。だから私、言ったのよ。同情しないでって。全部私が悪いんだからって。そしたら彼、なんて言ったと思う?」
「何?」
「愛とは、全てを許すことだからって。僕は貴方を愛しているから、何もかも受け入れたいって」
そう言った母の瞼に、きらりと光るものが浮かんだ。
「私は幸せ者だわ。あの時、彼の手を取って本当に良かった……」
感慨深そうに言う母だったが、一方光音は、初めて聞く事実に激しく戸惑っていた。
「でも……、えっ? じゃあ、僕は……」
「安心して。貴方は父さんの子。いくらなんでも、それは曖昧にできないもの。産んでからちゃんと調べたわよ」
「良かったあ~」
光音はホッと胸を撫で下ろした。
「ひどいよ、母さん。いきなりそんなディープな話するなんて」
「ごめんなさい。でも、知っておいてほしかったの」
母は言った。
「産まれるまでは、どっちの子なのか本当にわからなかったの。だから出産の時、不安でたまらなかった。オトヤはああ言ってくれたけど、貴方がもし彼の子じゃなかったらどうしようって……」
黙ってそれを聞きながら、光音は思った。
父はきっと、たとえ自分の子でなくても、その子を愛すると言っただろう。父は母の全てを許すつもりだったのだから。
けど……それでも母は不安だった。その気持ちは、なんとなくわかる気がする。
「いざ陣痛が始まったら、痛みで何もかもふっ飛んでしまったけど、私はこう思っていたんだと思う。神様、どうかこの子がオトヤに愛されますように。私はどうなってもいいから、私の愛する人が、この子を愛してくれますようにって。その証拠にね、私、貴方を産みながら叫んでいたらしいの。『アルトーっ!』って」
小さく息を呑んだ光音の目を、母はまっすぐ見つめた。
「そう。父さんが、この世で一番大好きな音。不思議なことに、自分では全然覚えてないんだけど、ずっとそう叫んでたんですって」
出産を終えた後、生まれたばかりの赤ん坊を抱きながら、父は「この子、アルトっていうのか?」と訊いてきたそうだ。その時、母はそう言われた理由がわからなかったのだが、咄嗟に「そうよ」と答えていた。
「そしたら父さんが、漢字の名前をつけてもいいかなって言ったの。嬉しくって、思わず泣いちゃった。それからつけられた漢字の意味を聞いて、また泣いたわ。光の音……誰かに光を与える人になってほしいって」
母は微笑み、光音の手をそっと握った。ほとんど力のこもっていないその手を、光音も優しく握り返す。
「貴方は将来、どんな人を愛するのかしら? 楽しみね……この空の下で、誰かがきっと、貴方に愛されるのを待っている」
「母さん……」
「約束よ、アルト。その人に会えたら、必ず私にも紹介してね」
「うん……!」
その一年後。余命宣告よりも、半年が過ぎた日の夕方だった。急に容体が悪くなった母は、身体に大量のチューブを繋がれたまま、病院で息を引き取った。
最後の瞬間には、父が付き添った。光音が病院へ駆けつけた時、父は冷たくなった母の手を大事そうに握り締め、静かに涙を流していた。
――僕と出会ってくれてありがとう。
震える父の唇が、そう言っていたのを今でも覚えている。薄暗い部屋で、カーテンから漏れる夕陽に照らされた二人の姿は、まるで厳かな彫刻のように見えた。光音はしばらく近づくこともできずに、病室の入り口でそっと佇み、涙を流した。
あれから七年。
「ケリー。あれ、ケリー?」
広いアパートの部屋の中を、光音は恋人の名を呼び、探し回っていた。すると、ドレスルームからどこか焦ったような声が聞こえてきた。
「ごめん! 少し待って!」
「何してるの?」
中を覗くと、黒のスラックスの上に白いシャツを着たケリーが、鏡を見ながらしきりに首を傾げていた。
「ネクタイを、どっちにしようかと思って」
そう言って彼が見せたのは、シルバーと細い黒のネクタイだ。
「君のお母さんに会いにいくと思うと、緊張して。華やかなほうがいいかな? それとも……」
「シルバーがいいよ。母さん、明るい色が好きだから」
「そう?」
「うん。そのほうがケリーにも似合うし」
右手に持ったシルバーのネクタイを見て、ケリーは頷く。
「じゃあ、そうしよう。気に入ってもらえるといいな」
鏡を見ながらネクタイを締めるケリーを見て、光音は笑った。
「会いにいくって、お墓参りなんだよ。そこまで緊張しなくていいって」
「そういうわけにはいかないさ。君を産んでくれた人なんだから」
微笑みながら言い、ケリーは黒の上着をさっと羽織る。
光音はジーンズと水色のシャツの上に、黒のブレザー姿だ。もう冬なので、二人ともそれぞれコートを着て外に出る。ローマの冬はそれほど寒くはないのだが、この日は今にも雪が降りそうな空模様だった。
気持ちが結ばれてから、ケリーは約束どおり、すぐに拠点をロンドンからローマへ移した。今出てきたのは、彼は新たに借りた高級アパートだ。ケリーが休みの時は、光音はいつもここへ泊まりにくる。
地下にある駐車場へ向かいながら、光音は言った。
「途中でお花屋さんに寄ってもいい?」
「もちろん」
車に乗り込み、ケリーはすぐにエンジンをかける。車内に暖房がいき渡るまで、少し時間がかかった。
「そうだ。前から気になってたんだけど」
「ん?」
「アルトの名前って、お母さんがつけたって言ってたよね。それって、何か由来があるの?」
訊かれて、光音は微笑んだ。
「父さんの好きな言葉なんだ。言葉っていうか、音だけど」
あれ以来、母は最期まで、父との本当のいきさつを話すことはなかった。父にも、その話を自分が聞いたことは告げていない。あの話は、母と自分との、大切な秘密の思い出だ。
「きっと、大切な意味が込められていたんだろうね」
ようやく空気が暖まったところで、ケリーがエンジンを踏む。
しばらく進み、ひとつ目の信号でブレーキをかけると、彼は突然言った。
「俺と初めて寝た時のこと、覚えてる?」
「な、何? いきなり」
顔を赤くする光音を見て、ケリーは笑った。
「いやらしい話をするんじゃないよ。あの時、君が言ったことを思い出してね。貴方を愛するために、生まれてきたと思っていいですか……って」
そう言って、ケリーはハンドルの上に両手をかける。
「俺、あんな言葉を言ってくれる人に出会えるなんて、思ってなかったよ。きっと君は、素晴らしい願いをたくさん込められて、育ったんだろうな」
「うん……。きっと、そうだと思う」
母の願いと、母を愛した父の静かな情熱が、自分という人間を築いてくれた。そして、このケリーという素晴らしい恋人を愛し、愛される心を育ててくれた。
「ケリー」
振り向いたケリーに、光音ははにかんだ表情で微笑みかける。
「僕と出会ってくれて、ありがとう」
ケリーは一瞬目を見開いた後、ふわりと笑った。
唇が近づく。赤信号が、このまましばらく続けばいいのにと思う。
雲の隙間から太陽が顔を出し、フロントガラスに光を注いだ。それを祝福のように受け止めながら、光音はケリーの唇を受け止めた。
【あとがき】
本編でさらっと光音の名前の由来を明かしたのですが、実はこういう背景があって、それを書きたくてたまらなくなって書いてしまいました。
ケリーと結ばれた時の「僕は貴方を愛するために生まれてきた」という台詞も、実はこういう背景があってのことです。本編に入れると話が脱線してしまうので省いておりました。書けてスッキリした……。
ちょっと影の薄い存在になっていますが、私は光音のお父さんが凄く好きです。こういう人と結婚したら、奥さんも子供も幸せだろうなと勝手に思っています。
光音とケリーの関係をすんなり認めてくれたお父さんですが、きっと世界中の芸術家と交流しているから、人の価値観や恋愛に対して偏見とかが一切ないのだと思われます。見識が広いって、素敵ですね。ちょっと見習いたいです。
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