『恋情と悪辣のヴァイオリニスト』番外編②~ウィル~

『恋情と悪辣のヴァイオリニスト』の番外編②、ウィルの話になります。

ネタバレになりますので、本編未読の方はご注意ください。



【リナリア】


 自分がそこにいた瞬間のことを、『生まれた』と言って良いのかわからない。

 言葉は既に知っていた。また、ヴァイオリンの弾き方も。

 壁と天井は、石づくりの灰色。床はこげ茶色の木の板で、指で触れると湿った感触がして、少し土臭かった。

 目の前には、いつも見知らぬ男がいた。そいつは自分のことを、『ウィル』と呼んだ。

「言うとおりに弾け。私の言うことが聞けないのか……!?」

 怒られているのだ、と思った。なぜ怒られているのかは、わからなった。

 とにかく、ヴァイオリンを弾かねばならないのだった。少しでも間違えると怒られる。

いや……怒られるなんてレベルじゃない。手で頬をぶたれ、膝で腹を蹴られ、最終的には鞭で素肌を引っ叩かれる。そのうち殺されるのではないかと思っていた。

 だから弾いた。正確なメトロノームの音みたいに、決してぶれることなく。

 弾いているうちに、ヴァイオリンが、自分とともに男の折檻を恐れる仲間のように思えてきた。暗くて湿った部屋も、男も、目の前にあるものは全て大嫌いだった。自分にとって美しいものは、ヴァイオリンが歌う旋律ただひとつだったから。

 ヴァイオリンを弾くために怒られているのに、自分の心を癒すのもまた、ヴァイオリン。……皮肉だ。でも、その時は気づかなかった。ヴァイオリンが大好きになった。

「きみだけが、トモダチだよ……」

 男が立ち去った後の部屋で、小さく呟き、そっとヴァイオリンに口づけた。

 大好きだった。



 おかしな言い方かもしれない。

『自分の中に誰かがいる』と気づくのに、そう時間はかからなかった。

 眠りに落ちると、彼は必ず夢に現れた。後々わかってきたことだが、それは夢ではなく、自分が現実世界で行動していない間に見えるビジョンなのだった。

 髪は自分と同じ金髪。背丈も同じ。その彼は、なぜかいつも、こちらに背を向けていた。

「ねえ、こっちをみてよ」

 呼びかけても、彼はピクリとも反応しない。

 ならばこちらから近づこうとするも、あともう少しで手が届くという場所に、透明なガラスの壁が立ちふさがっていた。

「ぼくはウィル。きみは?」

 彼は何も答えなかった。こちらの声は聞こえていないらしい。ガラスの壁が音を阻んでいるのかと思ったが、向こう側の音は全て聞こえた。 

 決してこちらを向くことはなかったが、彼は目の前でいろんな行動をしていた。走ったり、笑っていたり、そして……ヴァイオリンを弾いたりもしていた。

「きみもヴァイオリンがすきなの? ぼくもだよ!」

 そう呼びかけても、彼はこちらを見ない。

「ねえ、ぼくにもひかせて。いっしょにエンソウしよう」

 彼は見ない。

 見ない。


 

 何か、気づきがあったわけじゃない。やがてこう理解し始めることは、作られた人格たるものの宿命だったのかもしれない。

 自分は彼の分身。主役はあくまで彼で、自分は単なる身代わりだ、と。

「きづいてよ」

 そう、身代わり。

 あの男から彼を守るために作られた、身代わり――。

「ねえ。ぼく、がんばってるよ……」

 目に見えるものが、全て灰色に映る世界。与えられるのは痛みと苦しみ。この状況をどうにもできないのなら、せめてわかってほしかった。

僕がこんなにも一生懸命、君を守っているのだということを。

「お願い、僕を見て。僕は、君を守るために生まれてきたんだよ」

 互いに背丈がどんどん大きくなっていった。話し方も、少しずつ変化が生じていた。でも、彼の顔をいつまでも見ることはできなかった。声を聞くことも。

「ねえ」

 いつしか、こうして呼びかけるだけの毎日となった。自分が現実世界へ顔を出すことが、ある日ピタリとなくなったのだ。

 何かの理由で、状況が変わったのだろう。おそらく、「父さん」と名乗っていたあの男から解放されたのだと気づいた。

「僕はもう、いらないの……?」

 目の前の彼が、成長とともにどんどん生き生きしていくのがわかった。自分の時間は、あの灰色の世界に留まったままなのに。

「ねえ、僕はどこへ行けばいいの? どうして僕を作ったの?」

 そうして呼びかけて、気が遠くなるほどの時間が経った。気づけば彼も自分も、あの男と同じぐらいの背丈に成長していた。

 肉体の感覚がないために、声が枯れたという感覚すらもなかった。ただ疲れていた。

やがて呼びかけるのをやめた。ガラスの壁にもたれるように座り込み、ひとり膝を抱えた。寂しくてたまらなかった。せめてあの友達に……ヴァイオリンに触れたかった。

だが、ある時。

「――がない」

 何かが聞こえた。

 急いで後ろを振り向くと、彼が膝をつき、深くうなだれていた。

「時間がない、母さん……! 俺は、どうすれば……っ!」

 彼は苦しんでいた。そうわかった瞬間、無意識に唇の端が吊り上がっていた。

 彼がまた、自分を必要としていることがわかったから。

「……おい、俺を見ろよ」

 大人になった自分の声は、ぞっとするほど低かった。

「俺が必要なんだろ。こっちを見ろ」

 するとようやく、彼がこちらを振り向いた。青ざめたその表情は、鏡を見ているようでもあり、全くの別人にも見えた。

「名前は?」

 尋ねると、彼は言った。

「ケリー……」

 ずっとずっと、呼びかけてきた相手。初めて声を聞き、初めて顔を見て、初めて名前を知った。その高揚感は、愛などという次元では収まりきらなくなっており、何かどす黒いものをこの胸に生んだ。

「知ってるか? 俺、ずっとお前の代わりにヴァイオリン弾いてたんだぜ」

 ガラスの壁に両手をつき、必死で話しかけた。その表情が、悪魔のように歪んでしまっているとは知らずに。

「あの感覚、忘れちゃいねえ……! なあ、また俺に守ってもらいたいんだろ? 俺に身代わりになってほしいんだろ? そうだよなあ、お前、そのために俺を作ったんだから」

 ケリーは愕然と目を見開き、震えていた。やがてガラスの壁から、右手がすり抜け、彼のほうへと差し伸べられた。

「何を迷ってる? 俺の手を取れよ、ケリー」

 あと、もう少し。

「閉じ込められて退屈なんだよ。俺を出せ……ステージに戻らせろ!」

 彼が苦しげな表情で、ようやく手を伸ばしてきた。

 がっしりと固く手を取り合った次の瞬間、全く知らない場所に立っていた。

 戻ってきたのだ、現実の世界に!

 目をやると、テーブルの上には、いくつかの楽譜と、ヴァイオリンが置かれてあった。

 まるで愛しい恋人にするかのように、赤茶色の小さなヴァイオリンを、そっと抱き上げた。手に吸いつくような冷たい感触が、生きている実感を与えてくれた。

「会いたかったぜ、ずっと」

 身体がふわりと浮くような幸福が、胸を満たした。続いて血が煮え滾るほどの興奮が肌の下から湧き起こり、衝動的にヴァイオリンを弾いた。

 かつて、生きるために弾いた音色は、途方もない時間の葛藤を経て、凄まじいまでの爆発力を身につけていた。この感覚、衝動、狂気、止められない! 聴け、聴け、聴け! 世界中のあらゆるものに対してそう叫んだ。俺の魂を、聴け!

 立て続けに激しい演奏をし、ようやく気持ちが落ち着いた頃、楽譜と一緒にメモが置かれているのに気づいた。

――△△△△コンクール 10/16 AM10:00 迎え。

「10月16日……」

 壁にかかったカレンダーを見る。過ぎたらしい日の部分には、丁寧に×マークがつけられている。16日は、もう今日だった。時刻は午前3時。あと7時間すれば、迎えがくる。

 またステージに、立てる――。

 そうわかった瞬間、ゾクゾクとした感覚が背中を這い上がった。

 かつて、灰色の世界しか見ていなかった時、たった一度だけ、とても綺麗な光景に出会ったことがある。

 天上がとても高く、金色の光がそこからたくさん降り注いでいた。自分はとても綺麗な洋服を着ていて、手にはヴァイオリンが握られてあって、それを弾くと、客席の人たちが温かい視線を投げかけてくれるのがわかった。

 演奏を終えると、拍手と歓声が沸いた。嬉しかった。こんなにも美しく、そして幸せな空間があることを初めて知った。その場所は、「ステージ」といった。

 またあの場所に戻れる。もう、暗い場所に閉じ込められたりしない。

 自分はあの場所で生きて、音という翼で世界を羽ばたいていくのだ。聴かせてやる、世界中に、この魂を。ヴァイオリンがある限り、自分の世界は無限大に広がるのだ。

「見てろよ、ケリー」

 そう呟き、喉の奥で低く笑った。

「俺は生きる。お前がどれだけ俺を拒もうと、ずっとずっと、守ってやるよ……!」

 彼が見てくれないのなら、もっとたくさん……そうだ。世界中の人間の視線を集めてやる。

 

 俺を見ろ、見ろ……!


 ――見ろ、ケリー。頼む、見てくれ。


 どす黒い感情が、次第に本当の望みを覆い隠していった。

 眼鏡をかけた、小さな優しい天使と出会うまでは……。





【あとがき】


 ウィルの見えていた世界を知りたくて、ちょっと書いてみました。

 お話というより、彼の精神世界を書いただけみたいになってしまいましたが、とても素直に書けた気がしています。なので一度書いた後、誤字脱字のチェック以外、あえて盛ったり触ったりは一切せずに、そのまま公開させてもらいました。

 このたび『恋情と悪辣のヴァイオリニスト』を書くにあたり、DID患者として最も有名であろうビリー・ミリガン氏の本を読みました。

 彼の場合、複数の人格が光の輪を囲んでいて、そこに入った人が現実世界で行動をし、また誰が入るかを管理している人格までいたそうです。また作られた人格は、自分たちがビリーの守護者だと自覚もしていたのだとか。

人の頭の中って不思議だなあと思いながら、ではウィルはどんなビジョンを見ていたのだろうと気になっていました。彼はずっと、ケリーに呼びかけていたんですね。

 きっとウィルとケリーの心の中や関係性は、書けばきりのない話になると思われます。なので、追及するのはこの辺までにしておこうと思います。

 噂によると、レオナルド・ディカプリオさんがビリー・ミリガン役で映画撮影をしているそうです。あるいは、もう終わっているのかな? 日本ではいつ公開になるのか知りませんが、タイムリーな時にこの情報を知れて、とても嬉しいです。

 公開が始まったら、ケリーとウィルのことを思い出しながら観に行こうと思っています。凄く楽しみです。

メロンパンなう。

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